2011年2月16日水曜日

アル・カサバ・シアター「アライブ・フロム・パレスチナ」

昨夜、ヨルダン川西岸の街、ラーマッラーからやってきた「アル・カサバ・シアター」の公演を、京都市の中心部にある京都芸術センターへ観に行った。

演目は、アラビア語の原タイトルでは「占領下の物語」だが、日本語では「アライブ・フロム・パレスチナ」。2000年9月に始まった第2次インティファーダ、イスラエル軍がパレスチナ自治区へと大規模侵攻し、軍によるパレスチナ人の一般市民の殺害が日常と化した日々から生まれた劇だ。

数年前にも「アル・カサバ・シアター」は来日し、同じ演目の公演を行っている。それはDVDに収録され(日本語字幕付き)、一般購入が可能だ。大学のアラビア語の授業のアシスタントをしていたとき、2度ほど、学部の初年度の学生たちと一緒にDVDでこの演劇を鑑賞した。

会場で、私の後ろの席に偶然、劇団の芸術監督であるジョルジュ・イブラーヒームさんが御零女と一緒に座っておられた。話しかけると、DVDによるスクリーンの内部ではなくて、いまこそこの本物を見て欲しい、と言ってくださった。

作品を観た実感として、直接話したり手を取り合ったりしたわけではないけれども、パレスチナからやってきた、パレスチナ方言のアラビア語を話す、5人の役者たちの生身の姿、息遣い、目の潤い、舞台上を駆ける素足、躍動する肉体、そして体臭までもを私は感じることで、パレスチナが、またパレスチナに住む人々のことを、どうしようもなく恋しく思った。演劇が終わり、万雷の拍手の中で役者たちを送った後、振り返って「ありがとうございます」と監督に言うと、「どうだったかい?」と尋ねられた。一言、「Just, I miss Palestine」と私は言った。すると、監督は何も言わずに笑みを浮かべながら、私の肩をポンと叩いた。

演劇を観てパレスチナとパレスチナの人々を恋しく思った理由には、5年前にパレスチナを1ヶ月弱訪れたこともある。「シアター」が拠点を置く街、ラーマッラーにもよく足を運んだ。でも、パレスチナの「人々」という言い方は、この恋しさの感覚に対しては、少し大げさとも感じる。私はただ、目の前で演じていた役者たちを、また役者たちが演じたたくさんの登場人物たちを、恋するかのように愛おしく思ってしまった(実際、役者の一人の女性は、とても綺麗だった……)。

終盤の場面で、一組の男女のカップルがテーブルを挟んで、睦まじく語り合う。男が「目をつむって!」と女に言う。目を閉じた女に男が取り出して渡そうとするプレゼント、それは、銃弾。「わぁ、すごいわ!きれいね!」、「そうだろう、穴を開けて紐を通して首からかけたら、なんて素敵なんだろう!」。「じゃあ、今度は私からのプレゼントよ!」、「なになに?」、「これよ!」、「おおー、これは……」、「そう、催涙ガスの入った手榴弾!」。「やったー、これでぼくたちには、全部そろったね、ゴム弾、銃弾、催涙弾、ダムダム弾……」。「あと、まだないのは……」、「ヘリコプター!!」。

こんな「他愛もない」会話を交わしていると、突如、「きゃあ、ミサイルよ、ミサイル!」、「なに、なに、どこだい?!」。男はテーブルの下に身を沈め、女は卓上にしがみつく。すると、女はこんなことを言い出す。「ところであなた、このあいだ、あなたが一緒にいた女はいったい誰なの?」「そんなこと、どうでもいいだろう」「誰なの!?言って!」「あれは、ぼくの妹さ」「ああ、あなたにはいったい何人の妹がいるって言うの?そんなこと言っていると、そこらじゅうの女がみんなあなたの妹になるじゃない!」「君は、いっつもそうやって、最後には雰囲気を台無しにするんだから!始めはいい感じなのに……」。ミサイルが周囲を飛ぶ中で痴話喧嘩を始める二人、でも、二人の表情はまんざらでもない感じ。

どこか、狂ったような状況の中の、世界中のどこにでもいそうなカップルの睦まじさと痴話喧嘩とがなぜ、あれほど愛おしく思え、また観ている私が笑いながら癒されるような思いを得たのだろうか。

一方的に殺されるばかりが「普通」になってしまった日々のただ中にあっても、ユーモアと愛(恋するもの同士のものだけでなく、愛おしい娘を爆撃により失った父の思いも含めて)、そしてこの日々は「決して普通ではない」と目を見開き抗議の叫びを放つ勇気とを希求してやまないのが、パレスチナに生きる者たちなのだ。その存在は、生身の肉体に宿っている。それが、「パレスチナ」なのだ。

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