先の連休の最終日、久しぶりに近所の大文字山に登りに行った。初秋の好天に恵まれて、大文字山だけでなくふもとの銀閣寺や哲学の道にも、沢山の観光客が訪れていた。青い空、澄んだ空気。すがすがしい秋の行楽日和だった。
登山口に行く途中、山とは別の方向に向かう道への分岐がある。そこをゆくとすぐに、映画『パッチギ』の舞台になった京都朝鮮中・高級学校がある。映画のように「イムジン河」とはいかないが、大文字山へ足を運ぶ度に、吹奏楽の練習の演奏が学校から聞こえてくる。
この日もやはり楽器の音が聞こえてきた。朝鮮学校の存在を心の中で確かめつつ、分岐を通り過ぎた。しかし、なぜか、違和感、胸騒ぎのようなものを一瞬感じた。だがその時は、とにかく山を目指した。数時間後に下山して来ると、同じ場所で「おかしい」と強く感じた。あるべきものが、ない。そんな違和感だ。たしかここが朝鮮学校への分岐点なのに、あるべきものがない。
そう、朝鮮学校の所在を告げる看板がないのだ。いや、ないのではない。たしかに看板はある。だが、それは普段設置されている電柱からはずされて、裏返しにされ、横の崖との間に挟まっていた。
看板が特に損壊を受けていない様子から、嫌がらせで意図的にはずされたのではなく、おそらく学校関係者が一時的措置として行っていることのように感じられた。
この状態を携帯のカメラで撮った。あらためて写真を見返すと、看板の裏面、木枠に囲まれた鼠色の反射が、虚ろな不在感を帯びている。回り込んで撮った表には、学校名が黒字で、進入路を示す矢印が赤字で、白色の面の上に綺麗に印字されている。このコントラストが余計に、看板に取られた措置の意味が、学校の存在を道行く者たちに知らせないためであることを、私に感じさせた。
そして、付近を訪れる数百、数千の行楽者たちのどれほどが、自分たちの「行楽」のすぐ脇で起きて継続している、事象としては小さいかもしれないが――看板が裏返しになっている――その意味は深刻な事態を、感じ取っていることだろうかと、不安とも危機感ともいえないような感覚に、胸が軋んだ。
今年の春先から、同じ朝鮮学校の高級部の生徒たちが京都市内で3回、高校無償化の適用を求める署名活動を行っていた。私も路上で署名をしながら、学校生活について聞くと、一人の女子生徒は「離れたところから通っているので、交通費も通学時間も大変です」と語った。
いつ、看板が裏返されたのかは分からない。もうずっと前からなのかもしれない。しかし、署名活動を始めるものの、学校の看板を裏返さざるを得なくなった生徒や教師、保護者たちは、どれほどの無念を味わっていることだろうか。自らの存在を自分たちの手で隠さなくてはならない、それはどれほど辛く悲しいことだろうか。
裏返された看板の虚ろな裏面を毎朝、地に組み伏せられるかのようにして影になった「朝鮮学校」の文字たちを毎夕、目に入れながら生徒たちは登下校しているのだろう。このような体験を、若い高校生たちがしなくてはならない理由は、どこにもあるはずがない。
1 件のコメント:
《おそらく学校関係者が一時的措置として行っていることのように感じられた。》
本当はどうなんでしょう。事実関係を知りたいですね。生徒に「いつからこうなってるの?」と聞いてみてはどうですか。
コメントを投稿