2010年6月15日火曜日

ラジ・スラーニさん、ガザを語る(5月26日、大阪市公会堂)

  パレスチナ自治区のガザに拠点を置く人権団体「パレスチナ人権センター」の代表で、世界的に著名な人権活動家のラジ・スラーニさんが先月来日し、東京、大阪、京都で講演などを行った。日本のNGO「ヒューマン・ライツ・ナウ」の招聘。

 5月23日に大阪市公会堂小集会室で開かれた講演会には、100人以上の市民が参加。講演に先立って、80年代から親交を続ける日本人ジャーナリストの土井敏邦さんが撮影した、スラーニさんのインタビュー映像が流された。映像ではスラーニさんの生い立ちや、弁護士として人権活動を始めるまでの体験、スラーニさんにとっての活動の意味などが語られた 。(映像の内容は、土井さんのウェブサイトに詳しく書かれている。)

 スラーニさんは1953年にガザの著名な家系に生まれ、レバノンやエジプトの大学で高等教育を受けた。1979年から4年間イスラエルの監獄に投獄された。一回一時間半ほどの拷問を日に4~6回、筆舌に尽くしがたい苦痛を受けて「死にたい」と何度も思った。スラーニさんはこの「とても深い痛みに満ちた」経験から、「4次元の視点」を得たという。知識人や弁護士、民族主義者としての視点だけではない、「私は人びと、同胞たちの一部分なのです」(“I belong to the people”) という視点、あるいは感覚がそれだ。「苦しんだ者ほど、『生』の意味を理解することができる」。同じように投獄され拷問に苦しむパレスチナ人たち。息子や夫が収監された母や妻たち。家を破壊された家族。彼ら彼女らの痛みをどうしようもなく感じ取り受け止めてしまうのだ、とスラーニさんはインタビューで語っている。(写真:http://www.speaktruth.org/より)

 講演では、2001年の8月から9.11事件の直前まで南アフリカのダーバンで開催された「国連世界人種差別撤廃会議」に始まり、2008年12月27日より約3週間続いたガザ空爆、およびそれに対する国連調査団の「ゴールドストーン報告書」提出に至るまでの、ガザ地区の状況の変遷をスラーニさんは以下のように説明した。

 ニューヨークでの9.11事件直後、イスラエル現首相のネタニヤフは、テロの背後にはパレスチナ人がいると発言。その後、「対テロ戦争」を名目にイスラエル軍はパレスチナ自治区へ全面侵攻、アラファート議長らのいるパレスチナ自治政府議長府を攻囲した。アラファートの死後は議長の座を「穏健派」のアッバースが継ぐも、2006年1月のパレスチナ自治評議会選挙でハマースが圧勝する。中東地域で初の民主的な選挙だったにもかかわらず、欧米諸国は援助を凍結。イスラエルは自治政府への送金を停止したため、自治政府職員への給料が支払われなくなる。同時に、ガザの封鎖も開始された。

 2007年7月にハマースがガザを実行支配するようになると、イスラエルはガザの封鎖をいっそう強化。陸・海・空のいずれにおいても、イスラエルの許可無しには何も移動できなくなる。輸出入も不可能になり、ガザ地区の産業は死滅状態に追い込まれた。食糧、電気、医薬品の供給が途絶え、病院の手術室は使用不可能、透析器も停止。手術を受けたくとも、ガザを出る許可が下りない。

 浄水施設も機能しなくなり、汚水はガザの海へそのまま排出されるほかなくなった。学校では紙や教材やコンピューターなどが手に入らなくなる。ガザの外部で教育を受けるにもやはりガザを出ることができない。ガザに暮らす一般市民たちへのこうした惨禍は、イスラエルや国際社会に属する人間によってつくり出された、第一級の人道的悲劇であった。

 140万の人口の60%以上が失業状態、90%が貧困ライン以下の生活にあり、「家畜小屋」と化したガザのなかで人びとは、世界から隔絶され抑圧状態に置かれた。ハマースやその他の抵抗組織のメンバーに対するイスラエル軍の暗殺が実行され、海上の艦船からは砲撃があり、イスラエル軍の地上部隊がガザへ繰り返し侵攻し、木々だけでなく街の通りそのものまでが「根こぎ」にされ、あらゆるインフラ類が破壊された。

 ガザの浜辺で、ガンボートからの一分間に70発の砲撃によって、ある一家が殺害される事件も起きた。こうした状況が毎日、毎日繰り返された。ジュネーブ第4条約で定められているように、ガザの市民たちは占領国からの保護を受ける権利があるが、イスラエルはこれに違反し続けている。

 2008年10月にはヨーロッパ諸国がイスラエルとの経済協力強化を表明。そして12月27日、73の戦闘機がガザへの空爆を開始。強力な1.5トン爆弾が使用され、白燐弾は投下から2ヶ月間地上で燃え続けた。地上軍は無辜の農民を虐殺。結果、翌年1月19日までに1489人が殺害され、22000人が負傷し、うち9000人が障害を負うことになった。

 ガザ空爆はあらゆるメディアを通じて報じられるも、世界中の沈黙による共謀関係のなかで継続されたため、「私たちは見ていなかった」「私たちは知らなかった」とは世界の何人も述べることはできない。

 国連人権理事会は、ガザ空爆で犯された戦争犯罪を調査するための独立調査団を設立。議長には南アフリカの出身で、南ア最高裁判所裁判官や旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所検察官を務めた経験をもつリチャード・ゴールドストーンを据えた。調査団の提出した「ゴールドストーン報告書」は昨年10月に、国連人権理事会で承認を受けた(投票の際、アメリカは反対、日本は棄権)。この報告書の評価できる点は、今後6ヶ月以内にイスラエルとハマースの双方が信頼の置ける調査を実行しない場合には、国連安全保障理事会はこの問題を、ハーグの国際刑事裁判所(ICC)に付託するよう定めていることだ(2010年6月現在も、調査は履行されていない)。

 ガザでの戦争犯罪や人道に対する犯罪が、国際法の下で調査され裁かれるかどうかは、ガザの人びとが「ジャングルのルール」と「法のルール」の、どちらのもとでこれから生き続けるのか、その分け目になる。

 一方で、パレスチナ自治区のヨルダン川西岸の置かれている状況は、「ガザの10倍悪い」と表現することも不可能ではない。エルサレムでは東部を中心に、パレスチナ人の住民に対してあらゆる手段を用いた民族浄化・追放が展開され、入植地の建設拡大で「ユダヤ化」が進行している。また、イスラエルが造り出した長大な人種隔離壁は、2004年に国際司法裁判所が国際法に違反しているとの勧告的意見を出しているものだが、いまなお建設が続いている。さらに、エルサレムだけでなく西岸地区全域でイスラエル人の入植地建設は継続しており、パレスチナ人の住む町や村はますます分断されていっている。

 これまで、アメリカの仲介のもと、イスラエル政府とヨルダン川西岸「政府」のアッバースとの間で「和平」交渉が行われてきていた。しかし、西岸で実際に起きているのは「アパルトヘイト(人種隔離)システムの既成事実化」であり、パレスチナ側が求めているパレスチナ国家建設による「二国家解決案」とは実のところ、アパルトヘイトによる支配下でのことなのだ。

 パレスチナ人に対する民族浄化によってイスラエルが建国され、70万とも100万とも言われるパレスチナ人が追放され難民となった「ナクバ」から、62年が経った。ヨルダン川西岸とガザ地区をイスラエルが占領し続けて43年。さらに最悪な状況も、この先やってくるだろう。だが、パレスチナ人たちは格好の犠牲者にはならない。パレスチナ人たちへ罪を犯した者たちを、パレスチナ人たちは決して忘れはしないし、赦しもしない。いつの日か、パレスチナ人以外の者たちが代償を払うことになるだろう。                             (以上、筆者メモより)

 「破壊に次ぐ破壊の中で、ガザの人びとが明日も生きようとする希望や力の源とは、どこにあるのか。あるいは、もしかしたら、希望や生きる力が無くなっていってしまっているような状態があるのか」と、質疑応答の際に、筆者はスラーニさんに訊ねた。その答えは、筆者の英語力の問題のため、きちんとすべて聞き取ることはできなかったが、次の言葉だけは確かめられた。「イスラエルによる占領が、私たちパレスチナ人からこれまで決して奪えなかったものが、二つある。それは、希望と、戦略的な楽観主義だ」

 戦略的な楽観主義(strategic optimism)とは何か。ガザで楽観主義であるとは、いったいどういうことなのだろうか。悲観だけしかなかったら、明日を迎えることはとても難しいに違いないとは想像できる。けれどもガザは、人が「楽観」という心的状態を抱くのはもう不可能な場所なのではないか。それが、どのように「戦略的」であったら、可能になるのだろうか。

 「意志による楽観主義」(optimism of will)という言葉が思い出された。スラーニさんと深い親交を持っていた、パレスチナ系アメリカ人で文学研究者・思想家の、故・エドワード・サイードが好んだ言葉だ。「知性による悲観主義、意志による楽観主義」。この二つの言葉の組み合わせは、戦前のイタリアの政治家・思想家、アントニオ・グラムシによるものだ。2003年3月、イラク戦争開始前日にエジプトのカイロで、NHKの取材のもとで行われたサイードとスラーニさんの対談でも、サイードは「知性による悲観主義、意志による楽観主義」に触れながら、希望を語っていた。

 ただ「何とかなるだろう」と思うのではなく、知性(intellect)と意志(will)によって悲観と楽観を同居させること。それが、スラーニさんの言った「戦略」にもつながっているのではないだろうか。「状況は悪い。ゆえにそれを知的に分析し、その分析を踏まえたうえで、状況を変えたいという願望や可能性を信じて前向きに新たな動きを構築していこう」。そのように、「知性による悲観主義、意志による楽観主義」をサイードは説明していた(エドワード・サイード『ペンと剣』)。

(次へ続く)

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