2010年6月15日火曜日

辺野古における「戦略的な楽観主義」

 「なんだかんだ言って、結局また辺野古に戻ってくるよ。みんなそう言ってる。でも、これからあと13年でも、座り込みやるよ。これまで13年できたんだから、もう13年なんて、何でもないよ」

 事も無げに言われたこの言葉を聞いたときには、正直、意味がわからなかった。理解できなかった。今年3月初旬に京都のあるカフェで開かれた集いで、この10年近く沖縄の辺野古の海岸で基地反対の座り込みの活動に関わってきた女性が語った言葉だ。

 今年1月24日に行われた名護市長選投票日の前日と当日、私は辺野古にいた。投票日前日午後4時過ぎ、基地反対派候補の稲嶺進氏陣営ののぼりを手に、名護市内の選対本部を50人あまりの一団で出発した。投票権のない者が紛れ込んだのを申し訳なく思っている一方で、私の横を歩く同世代と思われる若い男性は、言葉数は少なく、だが力を込めた声でスローガンを張り上げ、しかと前を見据えて進んでいった。道ゆく自動車が、稲嶺氏支持のクラクションをパレードの一団へ鳴らして通り過ぎる。

 午後5時半、市内の大きな交差点に数百人の市民や報道関係者が集結し、稲嶺陣営の最後の街頭演説が始まった。人びとが固唾を呑んで見守るなか、「基地は絶対につくらせない」と稲嶺氏の声が響き渡った。一時間ほどで演説が終わると、市民たちは選挙運動の可能な時限ぎりぎりまで「最後のお願い」をするために、再び市内各地へ散らばっていった。夜半、辺野古近くの宿に戻ってきた宿の主人と、その友人で三線の師匠の老人は、これまで13年にわたった運動の苦労にも増して、今次の闘いを最後までやり抜いた充実感と期待とが入り混じった高揚感を顔に浮かべていた。

 翌24日朝、先の女性の船頭でひとり船に乗せてもらい、大村湾の漁港を出発して右手にキャンプ・シュワブを見ながら、辺野古の浜へ向かった。日の光のきらめきが海原を満たす光景の美しさにただただ息を呑むほかないまま、船べりからエメラルドグリーンの凪の海のなかを見ると、青黒くサンゴの群生が、そしてジュゴンの食む緑色の海の草が、波に揺られながら目に映る。政権交代後も着々と工事の進むキャンプ・シュワブは、建物の様子がかろうじてわかるくらい小さい。浜辺からだいぶ沖合いにいるはずだと思っていると、「基地ができれば、いま船の浮かんでいるここも、土砂に埋まる」と船頭から声がかかった。その夜10時過ぎ、那覇の隣の浦添市にて一泊泊めて頂いた家のテレビ画面に、稲嶺氏当確の速報が流れた。

 「なんだかんだ言って、辺野古に戻ってくる」。船頭の女性が京都で言ったのは、それからたった1ヵ月半後のことだった。「辺野古案はもう絶対にありえないし、さらに年月を重ねる(運動を含めた)負担もありえない」。このような言葉を私は予想、期待していたのだろう。だが、女性の言葉がどれほど深く現実を見据えたものだったかは、いま、明らかになっている。

 「選挙前は基地賛成派と反対派が、目も合わせられない重苦しい空気が張り詰めていた」、「でも選挙の後から、ごく自然に挨拶できるようになった」。辺野古の集落に起きた、確かな変化を、女性はそう話した。

 辺野古のサンゴの調査活動も彼女は続けている。「辺野古の自然を観光に役立てるために、まず自分たちが現状を知らないと」。一ヶ月に一、二回、広い湾のサンゴの一つひとつを、数人のダイバーと一緒にメジャーで計測して生息環境や状況を記録する、地道な活動だ。

 「50年前、サンゴを守ると言っても、沖縄でも誰も反応しなかった。今はみなが賛同する。同じように、基地の廃絶も50年後には、誰もがうなずくようになる」

 小さな集落のなかで引き裂かれ、かき乱されてきた人と人との関わり合いが、わずかでも修復される。辺野古の人びとが本当の平和のもとで生きていけるようになるために、何年、何十年かかってでも、自然と共生した暮らしや産業の礎を積んでゆく。人が生きていくことの根底に根ざしているからこそ、またその年月の流れとともにあるからこそ、「あと13年でも座り込みをする」という言葉が、内実を持って語られうる。 

 ガザから発せられた「戦略的な楽観主義」、あるいは「知性による悲観主義、意志による楽観主義」から私が思い至ったのは、こうした沖縄・辺野古のことだった。

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