昨夜、ヨルダン川西岸の街、ラーマッラーからやってきた「アル・カサバ・シアター」の公演を、京都市の中心部にある京都芸術センターへ観に行った。
演目は、アラビア語の原タイトルでは「占領下の物語」だが、日本語では「アライブ・フロム・パレスチナ」。2000年9月に始まった第2次インティファーダ、イスラエル軍がパレスチナ自治区へと大規模侵攻し、軍によるパレスチナ人の一般市民の殺害が日常と化した日々から生まれた劇だ。
数年前にも「アル・カサバ・シアター」は来日し、同じ演目の公演を行っている。それはDVDに収録され(日本語字幕付き)、一般購入が可能だ。大学のアラビア語の授業のアシスタントをしていたとき、2度ほど、学部の初年度の学生たちと一緒にDVDでこの演劇を鑑賞した。
会場で、私の後ろの席に偶然、劇団の芸術監督であるジョルジュ・イブラーヒームさんが御零女と一緒に座っておられた。話しかけると、DVDによるスクリーンの内部ではなくて、いまこそこの本物を見て欲しい、と言ってくださった。
作品を観た実感として、直接話したり手を取り合ったりしたわけではないけれども、パレスチナからやってきた、パレスチナ方言のアラビア語を話す、5人の役者たちの生身の姿、息遣い、目の潤い、舞台上を駆ける素足、躍動する肉体、そして体臭までもを私は感じることで、パレスチナが、またパレスチナに住む人々のことを、どうしようもなく恋しく思った。演劇が終わり、万雷の拍手の中で役者たちを送った後、振り返って「ありがとうございます」と監督に言うと、「どうだったかい?」と尋ねられた。一言、「Just, I miss Palestine」と私は言った。すると、監督は何も言わずに笑みを浮かべながら、私の肩をポンと叩いた。
演劇を観てパレスチナとパレスチナの人々を恋しく思った理由には、5年前にパレスチナを1ヶ月弱訪れたこともある。「シアター」が拠点を置く街、ラーマッラーにもよく足を運んだ。でも、パレスチナの「人々」という言い方は、この恋しさの感覚に対しては、少し大げさとも感じる。私はただ、目の前で演じていた役者たちを、また役者たちが演じたたくさんの登場人物たちを、恋するかのように愛おしく思ってしまった(実際、役者の一人の女性は、とても綺麗だった……)。
終盤の場面で、一組の男女のカップルがテーブルを挟んで、睦まじく語り合う。男が「目をつむって!」と女に言う。目を閉じた女に男が取り出して渡そうとするプレゼント、それは、銃弾。「わぁ、すごいわ!きれいね!」、「そうだろう、穴を開けて紐を通して首からかけたら、なんて素敵なんだろう!」。「じゃあ、今度は私からのプレゼントよ!」、「なになに?」、「これよ!」、「おおー、これは……」、「そう、催涙ガスの入った手榴弾!」。「やったー、これでぼくたちには、全部そろったね、ゴム弾、銃弾、催涙弾、ダムダム弾……」。「あと、まだないのは……」、「ヘリコプター!!」。
こんな「他愛もない」会話を交わしていると、突如、「きゃあ、ミサイルよ、ミサイル!」、「なに、なに、どこだい?!」。男はテーブルの下に身を沈め、女は卓上にしがみつく。すると、女はこんなことを言い出す。「ところであなた、このあいだ、あなたが一緒にいた女はいったい誰なの?」「そんなこと、どうでもいいだろう」「誰なの!?言って!」「あれは、ぼくの妹さ」「ああ、あなたにはいったい何人の妹がいるって言うの?そんなこと言っていると、そこらじゅうの女がみんなあなたの妹になるじゃない!」「君は、いっつもそうやって、最後には雰囲気を台無しにするんだから!始めはいい感じなのに……」。ミサイルが周囲を飛ぶ中で痴話喧嘩を始める二人、でも、二人の表情はまんざらでもない感じ。
どこか、狂ったような状況の中の、世界中のどこにでもいそうなカップルの睦まじさと痴話喧嘩とがなぜ、あれほど愛おしく思え、また観ている私が笑いながら癒されるような思いを得たのだろうか。
一方的に殺されるばかりが「普通」になってしまった日々のただ中にあっても、ユーモアと愛(恋するもの同士のものだけでなく、愛おしい娘を爆撃により失った父の思いも含めて)、そしてこの日々は「決して普通ではない」と目を見開き抗議の叫びを放つ勇気とを希求してやまないのが、パレスチナに生きる者たちなのだ。その存在は、生身の肉体に宿っている。それが、「パレスチナ」なのだ。
2011年2月16日水曜日
2010年10月12日火曜日
裏返された看板――京都朝鮮中・高級学校
先の連休の最終日、久しぶりに近所の大文字山に登りに行った。初秋の好天に恵まれて、大文字山だけでなくふもとの銀閣寺や哲学の道にも、沢山の観光客が訪れていた。青い空、澄んだ空気。すがすがしい秋の行楽日和だった。
登山口に行く途中、山とは別の方向に向かう道への分岐がある。そこをゆくとすぐに、映画『パッチギ』の舞台になった京都朝鮮中・高級学校がある。映画のように「イムジン河」とはいかないが、大文字山へ足を運ぶ度に、吹奏楽の練習の演奏が学校から聞こえてくる。
この日もやはり楽器の音が聞こえてきた。朝鮮学校の存在を心の中で確かめつつ、分岐を通り過ぎた。しかし、なぜか、違和感、胸騒ぎのようなものを一瞬感じた。だがその時は、とにかく山を目指した。数時間後に下山して来ると、同じ場所で「おかしい」と強く感じた。あるべきものが、ない。そんな違和感だ。たしかここが朝鮮学校への分岐点なのに、あるべきものがない。
そう、朝鮮学校の所在を告げる看板がないのだ。いや、ないのではない。たしかに看板はある。だが、それは普段設置されている電柱からはずされて、裏返しにされ、横の崖との間に挟まっていた。
看板が特に損壊を受けていない様子から、嫌がらせで意図的にはずされたのではなく、おそらく学校関係者が一時的措置として行っていることのように感じられた。
この状態を携帯のカメラで撮った。あらためて写真を見返すと、看板の裏面、木枠に囲まれた鼠色の反射が、虚ろな不在感を帯びている。回り込んで撮った表には、学校名が黒字で、進入路を示す矢印が赤字で、白色の面の上に綺麗に印字されている。このコントラストが余計に、看板に取られた措置の意味が、学校の存在を道行く者たちに知らせないためであることを、私に感じさせた。
そして、付近を訪れる数百、数千の行楽者たちのどれほどが、自分たちの「行楽」のすぐ脇で起きて継続している、事象としては小さいかもしれないが――看板が裏返しになっている――その意味は深刻な事態を、感じ取っていることだろうかと、不安とも危機感ともいえないような感覚に、胸が軋んだ。
今年の春先から、同じ朝鮮学校の高級部の生徒たちが京都市内で3回、高校無償化の適用を求める署名活動を行っていた。私も路上で署名をしながら、学校生活について聞くと、一人の女子生徒は「離れたところから通っているので、交通費も通学時間も大変です」と語った。
いつ、看板が裏返されたのかは分からない。もうずっと前からなのかもしれない。しかし、署名活動を始めるものの、学校の看板を裏返さざるを得なくなった生徒や教師、保護者たちは、どれほどの無念を味わっていることだろうか。自らの存在を自分たちの手で隠さなくてはならない、それはどれほど辛く悲しいことだろうか。
裏返された看板の虚ろな裏面を毎朝、地に組み伏せられるかのようにして影になった「朝鮮学校」の文字たちを毎夕、目に入れながら生徒たちは登下校しているのだろう。このような体験を、若い高校生たちがしなくてはならない理由は、どこにもあるはずがない。
登山口に行く途中、山とは別の方向に向かう道への分岐がある。そこをゆくとすぐに、映画『パッチギ』の舞台になった京都朝鮮中・高級学校がある。映画のように「イムジン河」とはいかないが、大文字山へ足を運ぶ度に、吹奏楽の練習の演奏が学校から聞こえてくる。
この日もやはり楽器の音が聞こえてきた。朝鮮学校の存在を心の中で確かめつつ、分岐を通り過ぎた。しかし、なぜか、違和感、胸騒ぎのようなものを一瞬感じた。だがその時は、とにかく山を目指した。数時間後に下山して来ると、同じ場所で「おかしい」と強く感じた。あるべきものが、ない。そんな違和感だ。たしかここが朝鮮学校への分岐点なのに、あるべきものがない。
そう、朝鮮学校の所在を告げる看板がないのだ。いや、ないのではない。たしかに看板はある。だが、それは普段設置されている電柱からはずされて、裏返しにされ、横の崖との間に挟まっていた。
看板が特に損壊を受けていない様子から、嫌がらせで意図的にはずされたのではなく、おそらく学校関係者が一時的措置として行っていることのように感じられた。
この状態を携帯のカメラで撮った。あらためて写真を見返すと、看板の裏面、木枠に囲まれた鼠色の反射が、虚ろな不在感を帯びている。回り込んで撮った表には、学校名が黒字で、進入路を示す矢印が赤字で、白色の面の上に綺麗に印字されている。このコントラストが余計に、看板に取られた措置の意味が、学校の存在を道行く者たちに知らせないためであることを、私に感じさせた。
そして、付近を訪れる数百、数千の行楽者たちのどれほどが、自分たちの「行楽」のすぐ脇で起きて継続している、事象としては小さいかもしれないが――看板が裏返しになっている――その意味は深刻な事態を、感じ取っていることだろうかと、不安とも危機感ともいえないような感覚に、胸が軋んだ。
今年の春先から、同じ朝鮮学校の高級部の生徒たちが京都市内で3回、高校無償化の適用を求める署名活動を行っていた。私も路上で署名をしながら、学校生活について聞くと、一人の女子生徒は「離れたところから通っているので、交通費も通学時間も大変です」と語った。
いつ、看板が裏返されたのかは分からない。もうずっと前からなのかもしれない。しかし、署名活動を始めるものの、学校の看板を裏返さざるを得なくなった生徒や教師、保護者たちは、どれほどの無念を味わっていることだろうか。自らの存在を自分たちの手で隠さなくてはならない、それはどれほど辛く悲しいことだろうか。
裏返された看板の虚ろな裏面を毎朝、地に組み伏せられるかのようにして影になった「朝鮮学校」の文字たちを毎夕、目に入れながら生徒たちは登下校しているのだろう。このような体験を、若い高校生たちがしなくてはならない理由は、どこにもあるはずがない。
2010年10月3日日曜日
到来する闇
五月、横須賀で戦艦三笠に乗った。日露戦争で東郷平八郎が乗艦した旗艦だ。NHKの「坂の上の雲」人気も受けて、中高年層の観光客で賑わっていた。
船内では東郷役の三船敏郎主演映画「日本海大海戦」の上映会。
終映後ガイドが言う。
「戦争を賛美する訳ではありません。でも、国が危機に晒されたとき、私たちは何をするべきか、映画からよく考えてください。」
満場の拍手が湧き起こった。
* * *
過日、京都の居酒屋で、学生が深刻そうに、だが確信に満ちた口調で連れの友人たち相手にぶっていた。
「お前たちは、中国と北朝鮮のことを見くびっている。国のことをもっと考えろ。外国人参政権、朝鮮学校支援、絶対にありえない。」
* * *
9月16日、京都地裁で京都朝鮮第一初級学校襲撃事件の民事訴訟。
閉廷後の集会で保護者が吐露した。
「スーパーで子どもが、オッパ、オンマ(おとうさん、おかあさん)と朝鮮語で言うのを聞くと、胸がどきどきする。」
* * *
おとうさん。おかあさん。その一言にも、子らの口を、慌てて押さえなくてはならない。
そんな社会の行き着く先は、余りに暗いが、見え透いてもいる。
船内では東郷役の三船敏郎主演映画「日本海大海戦」の上映会。
終映後ガイドが言う。
「戦争を賛美する訳ではありません。でも、国が危機に晒されたとき、私たちは何をするべきか、映画からよく考えてください。」
満場の拍手が湧き起こった。
* * *
過日、京都の居酒屋で、学生が深刻そうに、だが確信に満ちた口調で連れの友人たち相手にぶっていた。
「お前たちは、中国と北朝鮮のことを見くびっている。国のことをもっと考えろ。外国人参政権、朝鮮学校支援、絶対にありえない。」
* * *
9月16日、京都地裁で京都朝鮮第一初級学校襲撃事件の民事訴訟。
閉廷後の集会で保護者が吐露した。
「スーパーで子どもが、オッパ、オンマ(おとうさん、おかあさん)と朝鮮語で言うのを聞くと、胸がどきどきする。」
* * *
おとうさん。おかあさん。その一言にも、子らの口を、慌てて押さえなくてはならない。
そんな社会の行き着く先は、余りに暗いが、見え透いてもいる。
2010年6月15日火曜日
辺野古における「戦略的な楽観主義」
「なんだかんだ言って、結局また辺野古に戻ってくるよ。みんなそう言ってる。でも、これからあと13年でも、座り込みやるよ。これまで13年できたんだから、もう13年なんて、何でもないよ」
事も無げに言われたこの言葉を聞いたときには、正直、意味がわからなかった。理解できなかった。今年3月初旬に京都のあるカフェで開かれた集いで、この10年近く沖縄の辺野古の海岸で基地反対の座り込みの活動に関わってきた女性が語った言葉だ。
今年1月24日に行われた名護市長選投票日の前日と当日、私は辺野古にいた。投票日前日午後4時過ぎ、基地反対派候補の稲嶺進氏陣営ののぼりを手に、名護市内の選対本部を50人あまりの一団で出発した。投票権のない者が紛れ込んだのを申し訳なく思っている一方で、私の横を歩く同世代と思われる若い男性は、言葉数は少なく、だが力を込めた声でスローガンを張り上げ、しかと前を見据えて進んでいった。道ゆく自動車が、稲嶺氏支持のクラクションをパレードの一団へ鳴らして通り過ぎる。
翌24日朝、先の女性の船頭でひとり船に乗せてもらい、大村湾の漁港を出発して右手にキャンプ・シュワブを見ながら、辺野古の浜へ向かった。日の光のきらめきが海原を満たす光景の美しさにただただ息を呑むほかないまま、船べりからエメラルドグリーンの凪の海のなかを見ると、青黒くサンゴの群生が、そしてジュゴンの食む緑色の海の草が、波に揺られながら目に映る。政権交代後も着々と工事の進むキャンプ・シュワブは、建物の様子がかろうじてわかるくらい小さい。浜辺からだいぶ沖合いにいるはずだと思っていると、「基地ができれば、いま船の浮かんでいるここも、土砂に埋まる」と船頭から声がかかった。その夜10時過ぎ、那覇の隣の浦添市にて一泊泊めて頂いた家のテレビ画面に、稲嶺氏当確の速報が流れた。
「なんだかんだ言って、辺野古に戻ってくる」。船頭の女性が京都で言ったのは、それからたった1ヵ月半後のことだった。「辺野古案はもう絶対にありえないし、さらに年月を重ねる(運動を含めた)負担もありえない」。このような言葉を私は予想、期待していたのだろう。だが、女性の言葉がどれほど深く現実を見据えたものだったかは、いま、明らかになっている。
「選挙前は基地賛成派と反対派が、目も合わせられない重苦しい空気が張り詰めていた」、「でも選挙の後から、ごく自然に挨拶できるようになった」。辺野古の集落に起きた、確かな変化を、女性はそう話した。
「50年前、サンゴを守ると言っても、沖縄でも誰も反応しなかった。今はみなが賛同する。同じように、基地の廃絶も50年後には、誰もがうなずくようになる」
小さな集落のなかで引き裂かれ、かき乱されてきた人と人との関わり合いが、わずかでも修復される。辺野古の人びとが本当の平和のもとで生きていけるようになるために、何年、何十年かかってでも、自然と共生した暮らしや産業の礎を積んでゆく。人が生きていくことの根底に根ざしているからこそ、またその年月の流れとともにあるからこそ、「あと13年でも座り込みをする」という言葉が、内実を持って語られうる。
ガザから発せられた「戦略的な楽観主義」、あるいは「知性による悲観主義、意志による楽観主義」から私が思い至ったのは、こうした沖縄・辺野古のことだった。
ラジ・スラーニさん、ガザを語る(5月26日、大阪市公会堂)
パレスチナ自治区のガザに拠点を置く人権団体「パレスチナ人権センター」の代表で、世界的に著名な人権活動家のラジ・スラーニさんが先月来日し、東京、大阪、京都で講演などを行った。日本のNGO「ヒューマン・ライツ・ナウ」の招聘。
スラーニさんは1953年にガザの著名な家系に生まれ、レバノンやエジプトの大学で高等教育を受けた。1979年から4年間イスラエルの監獄に投獄された。一回一時間半ほどの拷問を日に4~6回、筆舌に尽くしがたい苦痛を受けて「死にたい」と何度も思った。スラーニさんはこの「とても深い痛みに満ちた」経験から、「4次元の視点」を得たという。知識人や弁護士、民族主義者としての視点だけではない、「私は人びと、同胞たちの一部分なのです」(“I belong to the people”) という視点、あるいは感覚がそれだ。「苦しんだ者ほど、『生』の意味を理解することができる」。同じように投獄され拷問に苦しむパレスチナ人たち。息子や夫が収監された母や妻たち。家を破壊された家族。彼ら彼女らの痛みをどうしようもなく感じ取り受け止めてしまうのだ、とスラーニさんはインタビューで語っている。(写真:http://www.speaktruth.org/より)
講演では、2001年の8月から9.11事件の直前まで南アフリカのダーバンで開催された「国連世界人種差別撤廃会議」に始まり、2008年12月27日より約3週間続いたガザ空爆、およびそれに対する国連調査団の「ゴールドストーン報告書」提出に至るまでの、ガザ地区の状況の変遷をスラーニさんは以下のように説明した。
浄水施設も機能しなくなり、汚水はガザの海へそのまま排出されるほかなくなった。学校では紙や教材やコンピューターなどが手に入らなくなる。ガザの外部で教育を受けるにもやはりガザを出ることができない。ガザに暮らす一般市民たちへのこうした惨禍は、イスラエルや国際社会に属する人間によってつくり出された、第一級の人道的悲劇であった。
ガザの浜辺で、ガンボートからの一分間に70発の砲撃によって、ある一家が殺害される事件も起きた。こうした状況が毎日、毎日繰り返された。ジュネーブ第4条約で定められているように、ガザの市民たちは占領国からの保護を受ける権利があるが、イスラエルはこれに違反し続けている。
5月23日に大阪市公会堂小集会室で開かれた講演会には、100人以上の市民が参加。講演に先立って、80年代から親交を続ける日本人ジャーナリストの土井敏邦さんが撮影した、スラーニさんのインタビュー映像が流された。映像ではスラーニさんの生い立ちや、弁護士として人権活動を始めるまでの体験、スラーニさんにとっての活動の意味などが語られた 。(映像の内容は、土井さんのウェブサイトに詳しく書かれている。)

ニューヨークでの9.11事件直後、イスラエル現首相のネタニヤフは、テロの背後にはパレスチナ人がいると発言。その後、「対テロ戦争」を名目にイスラエル軍はパレスチナ自治区へ全面侵攻、アラファート議長らのいるパレスチナ自治政府議長府を攻囲した。アラファートの死後は議長の座を「穏健派」のアッバースが継ぐも、2006年1月のパレスチナ自治評議会選挙でハマースが圧勝する。中東地域で初の民主的な選挙だったにもかかわらず、欧米諸国は援助を凍結。イスラエルは自治政府への送金を停止したため、自治政府職員への給料が支払われなくなる。同時に、ガザの封鎖も開始された。
2007年7月にハマースがガザを実行支配するようになると、イスラエルはガザの封鎖をいっそう強化。陸・海・空のいずれにおいても、イスラエルの許可無しには何も移動できなくなる。輸出入も不可能になり、ガザ地区の産業は死滅状態に追い込まれた。食糧、電気、医薬品の供給が途絶え、病院の手術室は使用不可能、透析器も停止。手術を受けたくとも、ガザを出る許可が下りない。
浄水施設も機能しなくなり、汚水はガザの海へそのまま排出されるほかなくなった。学校では紙や教材やコンピューターなどが手に入らなくなる。ガザの外部で教育を受けるにもやはりガザを出ることができない。ガザに暮らす一般市民たちへのこうした惨禍は、イスラエルや国際社会に属する人間によってつくり出された、第一級の人道的悲劇であった。
140万の人口の60%以上が失業状態、90%が貧困ライン以下の生活にあり、「家畜小屋」と化したガザのなかで人びとは、世界から隔絶され抑圧状態に置かれた。ハマースやその他の抵抗組織のメンバーに対するイスラエル軍の暗殺が実行され、海上の艦船からは砲撃があり、イスラエル軍の地上部隊がガザへ繰り返し侵攻し、木々だけでなく街の通りそのものまでが「根こぎ」にされ、あらゆるインフラ類が破壊された。
ガザの浜辺で、ガンボートからの一分間に70発の砲撃によって、ある一家が殺害される事件も起きた。こうした状況が毎日、毎日繰り返された。ジュネーブ第4条約で定められているように、ガザの市民たちは占領国からの保護を受ける権利があるが、イスラエルはこれに違反し続けている。
2008年10月にはヨーロッパ諸国がイスラエルとの経済協力強化を表明。そして12月27日、73の戦闘機がガザへの空爆を開始。強力な1.5トン爆弾が使用され、白燐弾は投下から2ヶ月間地上で燃え続けた。地上軍は無辜の農民を虐殺。結果、翌年1月19日までに1489人が殺害され、22000人が負傷し、うち9000人が障害を負うことになった。
ガザ空爆はあらゆるメディアを通じて報じられるも、世界中の沈黙による共謀関係のなかで継続されたため、「私たちは見ていなかった」「私たちは知らなかった」とは世界の何人も述べることはできない。
国連人権理事会は、ガザ空爆で犯された戦争犯罪を調査するための独立調査団を設立。議長には南アフリカの出身で、南ア最高裁判所裁判官や旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所検察官を務めた経験をもつリチャード・ゴールドストーンを据えた。調査団の提出した「ゴールドストーン報告書」は昨年10月に、国連人権理事会で承認を受けた(投票の際、アメリカは反対、日本は棄権)。この報告書の評価できる点は、今後6ヶ月以内にイスラエルとハマースの双方が信頼の置ける調査を実行しない場合には、国連安全保障理事会はこの問題を、ハーグの国際刑事裁判所(ICC)に付託するよう定めていることだ(2010年6月現在も、調査は履行されていない)。
ガザでの戦争犯罪や人道に対する犯罪が、国際法の下で調査され裁かれるかどうかは、ガザの人びとが「ジャングルのルール」と「法のルール」の、どちらのもとでこれから生き続けるのか、その分け目になる。
一方で、パレスチナ自治区のヨルダン川西岸の置かれている状況は、「ガザの10倍悪い」と表現することも不可能ではない。エルサレムでは東部を中心に、パレスチナ人の住民に対してあらゆる手段を用いた民族浄化・追放が展開され、入植地の建設拡大で「ユダヤ化」が進行している。また、イスラエルが造り出した長大な人種隔離壁は、2004年に国際司法裁判所が国際法に違反しているとの勧告的意見を出しているものだが、いまなお建設が続いている。さらに、エルサレムだけでなく西岸地区全域でイスラエル人の入植地建設は継続しており、パレスチナ人の住む町や村はますます分断されていっている。
これまで、アメリカの仲介のもと、イスラエル政府とヨルダン川西岸「政府」のアッバースとの間で「和平」交渉が行われてきていた。しかし、西岸で実際に起きているのは「アパルトヘイト(人種隔離)システムの既成事実化」であり、パレスチナ側が求めているパレスチナ国家建設による「二国家解決案」とは実のところ、アパルトヘイトによる支配下でのことなのだ。
パレスチナ人に対する民族浄化によってイスラエルが建国され、70万とも100万とも言われるパレスチナ人が追放され難民となった「ナクバ」から、62年が経った。ヨルダン川西岸とガザ地区をイスラエルが占領し続けて43年。さらに最悪な状況も、この先やってくるだろう。だが、パレスチナ人たちは格好の犠牲者にはならない。パレスチナ人たちへ罪を犯した者たちを、パレスチナ人たちは決して忘れはしないし、赦しもしない。いつの日か、パレスチナ人以外の者たちが代償を払うことになるだろう。 (以上、筆者メモより)
「破壊に次ぐ破壊の中で、ガザの人びとが明日も生きようとする希望や力の源とは、どこにあるのか。あるいは、もしかしたら、希望や生きる力が無くなっていってしまっているような状態があるのか」と、質疑応答の際に、筆者はスラーニさんに訊ねた。その答えは、筆者の英語力の問題のため、きちんとすべて聞き取ることはできなかったが、次の言葉だけは確かめられた。「イスラエルによる占領が、私たちパレスチナ人からこれまで決して奪えなかったものが、二つある。それは、希望と、戦略的な楽観主義だ」
戦略的な楽観主義(strategic optimism)とは何か。ガザで楽観主義であるとは、いったいどういうことなのだろうか。悲観だけしかなかったら、明日を迎えることはとても難しいに違いないとは想像できる。けれどもガザは、人が「楽観」という心的状態を抱くのはもう不可能な場所なのではないか。それが、どのように「戦略的」であったら、可能になるのだろうか。
「意志による楽観主義」(optimism of will)という言葉が思い出された。スラーニさんと深い親交を持っていた、パレスチナ系アメリカ人で文学研究者・思想家の、故・エドワード・サイードが好んだ言葉だ。「知性による悲観主義、意志による楽観主義」。この二つの言葉の組み合わせは、戦前のイタリアの政治家・思想家、アントニオ・グラムシによるものだ。2003年3月、イラク戦争開始前日にエジプトのカイロで、NHKの取材のもとで行われたサイードとスラーニさんの対談でも、サイードは「知性による悲観主義、意志による楽観主義」に触れながら、希望を語っていた。
ただ「何とかなるだろう」と思うのではなく、知性(intellect)と意志(will)によって悲観と楽観を同居させること。それが、スラーニさんの言った「戦略」にもつながっているのではないだろうか。「状況は悪い。ゆえにそれを知的に分析し、その分析を踏まえたうえで、状況を変えたいという願望や可能性を信じて前向きに新たな動きを構築していこう」。そのように、「知性による悲観主義、意志による楽観主義」をサイードは説明していた(エドワード・サイード『ペンと剣』)。
(次へ続く)
2010年6月9日水曜日
杉山千佐子さん 空襲体験を語る(6月5日、ピースあいち)
「声を出さなきゃだめだよ。日本っていう国は黙ってたらだめなんだ」
南山大学の職員寮で寮母を始めて、人間らしい生活もようやく送れるようになったとき、ある教授からかけられた言葉に、はっと目が覚めた。戦時の空襲被災者への補償を国に求める運動を起こした。「私たちに戦後はない。救ってください」。1972年。敗戦から四半世紀が経ち、杉山さんは50代も半ばを過ぎていた。
南山大学の職員寮で寮母を始めて、人間らしい生活もようやく送れるようになったとき、ある教授からかけられた言葉に、はっと目が覚めた。戦時の空襲被災者への補償を国に求める運動を起こした。「私たちに戦後はない。救ってください」。1972年。敗戦から四半世紀が経ち、杉山さんは50代も半ばを過ぎていた。
1945年3月12日の名古屋大空襲で、百貨店の立ち並ぶ市の目抜き通りは「ぺろっ」と焼けた。真っ白な灰だけが残り、その上をサクサクと歩くと足元はまだ赤く燃えていた。伯父は焼夷弾で火柱になった。骨も残らなかった。
同月24日深夜には自宅に爆弾が直撃。防空壕のなか、首まで土に埋まった。クリスチャンの杉山さんは助けが来るまで、弟と賛美歌を歌った。母は「アーメン」と唱えた。大学病院に収容され、負傷した左目を摘出した。

他国での戦争被災者の援護状況を知るために、ドイツにも飛んだ。ドイツでは敗戦のわずか5年後から、一般市民も含めた戦争被害者に補償が開始されていた。「ドイツにいなさい。ドイツはあなたを見捨てない」と言われた。この機会を名古屋のテレビ局が番組にした。そのときのディレクターが、20年後のいま、社の取締役になっていた。健康な人が一生懸命やればそうなる。私たちは何年経っても同じところにいて、一歩も前進がない。そう感じざるを得ない。杉山さんが声を上げてから40年が過ぎ去っていた。
それでも、寮母の仕事に就いて活動を始めてから、人生は本当に幸せになったという。はっきりとものを言うことを覚えた。そうでなかったら、何も知らないでただ泣いて暮らしていたかもしれない。100まで生きて、戦時災害援護法の制定をどんなことがあっても求め続けないと。だがそれは、空襲被災者の数知れない悲惨な経験と辛い人生、そして死に触れ続け、また多くの仲間を歳月の流れの中に失うことを意味してもいた。
「誰しもが幸せではない」。空襲で頭と顔に大やけどを負い、「化け物」になった少年がいた。家は食べ物商売。客は少年を指差して「あそこのものを食べると、ああなる」と言い、家族は息子を二階の六畳間に「軟禁」した。親が亡くなると兄弟の家に引き取られ、やはり同じような生活を強いられた。ラジオで耳学問をした。身寄りがなくなってからは、病院で便所の掃除夫の仕事を得た。晩年は生活保護を受けていた。一昨年、車に轢かれて死亡した。
空襲によって生活を破壊され、老いてなお貧苦に喘ぐ女性もいた。いつ取り壊されてもおかしくない、トイレもない老朽化したアパートの四畳半の「豚小屋」に、住み続けていた。障害や貧困に苦しむ被害者たちは、表に出てきて語ったり窮状を訴えたりすることがいまだにできないでいる。
生まれて二時間後に火に焼かれ、片脚を切り落とした女性がいる。炎に追われて二階より飛び降りて死んだ青年、業火の灼熱に息絶えた少女、焼夷弾に腹を貫かれた妊婦、彼ら彼女らの姿を目にしたかつての少年がいた。「死んでもついていくから、沖縄に連れて行ってくれ」。日本全国を一緒に行脚した仲間は骨肉腫に侵され、そう言い遺して逝った。存命の戦災傷害者を尋ねゆく映画『おみすてになるのですか――傷痕の民』(林雅行監督、本年7月公開予定)に杉山さんは出演。一軒一軒行く度に、胸が切り裂けるような辛い思いをした。
それでも、私幸せ、と心から思うときがある。一切れの焼き鮭を二人で分けて「お茶漬け食べていかない」と知人が誘ってくれたとき。介護のおかげでゴミの中で暮らさなくて済むと安堵するとき。「私幸せ」と思うと、幸せが寄ってくる。河村たかし名古屋市長が戦災傷害者に見舞金を出すことを決めた。東京大空襲から65回目の3月10日には、戦時災害援護法制定の必要性を国会議員会館で訴えた。
全国の戦争被害者がひとつになって国との闘いを始める日がきっと来ると信じて、あと5年、100まで生きる。
*「戦争と平和の資料館 ピースあいち」(名古屋市名東区)では、開館3周年を記念して特別展「名古屋空襲を知る~いま平和を考えるために」が開かれている(7月17日まで)。
関連企画として今回の杉山さんの講演を皮切りに、今月12日はジャーナリストの前田哲男さんの講演会「空爆の思想」、2004年の沖縄国際大学米軍ヘリ墜落を体験した詩人の大泉その枝さんによる詩の朗読会が19日に予定されている。
*「戦争と平和の資料館 ピースあいち」(名古屋市名東区)では、開館3周年を記念して特別展「名古屋空襲を知る~いま平和を考えるために」が開かれている(7月17日まで)。
関連企画として今回の杉山さんの講演を皮切りに、今月12日はジャーナリストの前田哲男さんの講演会「空爆の思想」、2004年の沖縄国際大学米軍ヘリ墜落を体験した詩人の大泉その枝さんによる詩の朗読会が19日に予定されている。
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